オマケ

2003年12月、夕暮れどきの中元寺川鉄橋
護岸整備され、この左側の農地はすっかり住宅地となっていました。




74.1.4 日豊本線 青井岳

ピカピカのDF50牽くローカル列車

74.1.4 日豊本線 青井岳

当時の花形列車、東京をめざすブルートレイン「富士」

74.1.4 日豊本線 青井岳

こうして、筑豊と宮崎で3日間を撮影・録音に明け暮れ、この夜予定していた上り急行
「高千穂」は超満員で乗り切れず。
次の臨時急行「日南2号」にむりやり乗り込んで、すし詰めのまま大阪まで戻り、新快速、
東海道ゲタ電、そして最後は「こだま」に乗り継いで帰京したのでした。

全宿泊は夜行列車、食事は駅弁か駅の立ち食いソバ、あるいは菓子パン。
眠くて疲れて・・・という周遊券ビンボー旅行の経験は、YHを利用し始める前の北海道旅
行へと引き継がれてゆきます。

74.1.3 若松

あたりまえのようにカマが佇む風景。

74.1.3 若松にて

74.1.3 後藤寺機関区

野積みの石炭をクレーンで積み込む。

74.1.3 後藤寺機関区

74.1.3 後藤寺機関区

あの頃の筑豊は石炭の煙と鉄の匂いで満ちていた。

74.1.5 後藤寺線 船尾〜起行(信) 5492レ

この日は朝から夕方まで中元寺川鉄橋にいた。
腕木信号がカタンと下りるとスタンバイ。
船尾の鉱山から石灰石を満載して、思い切り力行してくる姿を飽きるほど撮ることができた。

(5492レは本来、逆9600+次9600のKiss重連なのに、この日は逆9600+逆次9600で来た)

74.1.5 後藤寺線 船尾〜起行(信) 591レ
74.1.5 後藤寺線 船尾〜起行(信) 8492レ
74.1.5 後藤寺線 船尾〜起行(信) 6494レ

朝から午後まで腰を据えた理由のひとつはコレ。
世にも珍しい(・・・と、当時は思っていた)引き合い重連。
午前中の好天が崩れはじめ、水鏡にならなかったのが残念だった。

74.1.4 日豊本線 青井岳 1211レ 急行「日南3号」

寝台車にグリーン車2両を組み込む、京都始発のハネムーン列車。
それを牽くのは急客機C57。
見たかった、会いたかった、撮りたかったポイント。

でも、悲しいかなネガの損傷が・・・・・(T_T)

74.1.4 日豊本線 佐土原付近 535レ

電化工事が始まっており、架線柱が設置されはじめていた。

(この535レこそこの時期唯一残るC61牽引客車列車だったのに・・・C57が牽いてきた)

74.1.4 日豊本線 佐土原付近 4589レ

門デフを見て、九州に来たなあ〜という実感が湧いた。

再び、当時の旅日記より〜

1月4日
13:14 591レが来ない・・・駅で聞いたらウヤだそうだ。
     60円のビン入りファンタを飲んで「日南3号」を待つ。
16:33 1分遅れでやってきたが、テープレコーダーが動かず録音は失敗した。
     が、いい写真が5枚も撮れた。
17:55 青井岳発。C57牽引1527レで都城へ。満席なのでデッキで録音する。
     すぐにトンネル。デッキに煙が充満する。
21:32 土産にザボンを買い、急行「みやざき」で南九州を離れ、筑豊へ向かう。

これは、こんな按配で友人と2人、C61と「日南3号」見たさに全車中泊の
4泊5日で筑豊と日豊本線へ行った時のアルバムです。
やはり相当ネガの損傷がひどく、中には再生不可能なほどのダメージを
受けたコマや、録音したカセットテープまで聴くに堪えられない保存状態
となっていました。
見苦しさやアングルの稚拙さはご勘弁いただいて、「あの頃」の九州では
こんなだったな〜、とご覧いただければ幸いです。

当時の旅日記より〜

1月2日
10:00 定刻に東京を発車。急行「桜島・高千穂」。牽引機EF58 2。
13:51 浜松に停車。うなぎ飯400円也。
16:09 新垂井〜関ヶ原で雪を見た。たいくつでしょうがない。
20:17 ・・・車内、暑くて眠れない。
22:21 尾道着。デッキに立つとすごく寒い。
1月3日
 3:42 厚狭着。厚狭でアサと読む。まだ夜は明けていない。
 4:17 下関着。機関車が代わった。EF30 4。
 4:47 小倉着。「桜島・高千穂」ともお別れだ。急行は鹿児島をめざす。
 8:06 日田彦山急行「日田」で後藤寺に着いた。
     中元寺川鉄橋で待つも、いっこうに汽車が来ない。
     ・・・正月3が日は運休であった。
     後藤寺機関区で9600を、若松機関区で8620とD60を撮って過ごす。 

「あの頃」の九州
(筑豊・宮崎)
(昭和49年1月)

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