「あの頃」の北海道




昭和47年に友人の父に連れて行ってもらった木曽路以来、50年の蒸気機関車終焉まで
学校が休みになるたびに、煙を求めて狂ったように北へ南へと出かけていきました。
まだ中学生かそこらの分際で。

夏休みは灼けつくバラストと枕木の上を草いきれに咽せながら歩き、
春休みには雪の小駅のストーブで濡れた靴を乾かしながら不味いミソパンで空腹をなだめ、
文化祭や体育祭の代休を引っかけた連休には「ばんだい5号」の客となって、
切符は学割のワイド・ミニ周遊券、いつも宿は夜行列車。
当時のバイブル「SLダイヤ情報」は書き込みと持ち歩きで1度遠征すればボロボロ。

でも、今思い返せば貴重な記録を手元に残せたと思います。
管理不行き届きでネガはキズと褪色で悲惨なものになっていますが。。。

なんとかデジタル化して可能な限り原版に近づけるよう修正を施し、
一生の宝物にしたいと思っていますが、その一部を恥ずかしながら公開します。
稚拙な個人的記録にすぎませんが、懐かしんでご覧いただける方もおいでかと存じます。

想い出の「あの頃」の北海道・煙の風景をご覧ください。








初めて渡った北海道は春休み。
急行「利尻」の温もりを豊富で捨て、朝陽が眩しい白い原野で汽車を待つ。
サロベツの雪原越しに見た利尻富士は尊厳に満ちていた。

宗谷本線 豊富〜下沼 (昭和49年3月29日 324レ C5530)


















塩狩峠・・・映画を見て感動し、小説を読み予習して臨んだ峠の印象は・・・
「濡れた足がとっても冷たかった。」
駅の小さな待合室はストーブで濡れものを乾かすファンで満員だった。

宗谷本線 和寒〜塩狩 (昭和49年3月30日 324レ C5550)


















D51が牽いてくるはずの貨物なのに、この日はDLが本務で来た。
カセットには思わず発した友人の声が録音された。 「・・・なんだありゃ!?」
当時はこんな嫌われ者もいた。

宗谷本線 塩狩駅 (昭和49年3月30日 1394レ DD53+D51(後))


















オホーツクをバックに雪原をゆくキューロクの小編成。
白と青だけの風景がとてもきれいだった。

湧網線 常呂〜能取 (昭和50年3月25日 1991レ 49666)


















D51の従輪を2軸にしたD61というカマがいた。
ポイントを選ぶ間もなく、貨車の最後尾をD51に押してもらってやってきた。
唯一の特徴である足回りが隠れてしまい、後補機はファインダーに入らなかった。

留萌本線 恵比島〜峠下 (昭和49年4月2日 6783レ D614+D51(後)) 
 


















キハ22はゆっくりゆっくり峠を登り、トンネルを抜けると信号場で多くのファンを下ろした。
山々に汽笛が響き、やがて歩くようなスピードで汽車は峠を登ってきた。
雪の常紋の凄まじさを知ったこの年以降、峠の空から煙は消えた。

石北本線 金華〜常紋 (昭和50年3月26日 2594レ D51150)


















北見のゾロ目、人気者の444。
この春の行程ではC5833とともに、やたら会う機会が多い当たり年だった。

石北本線 留辺蘂〜金華 (昭和50年3月23日 2594レ D51444)


















濃霧は朝陽とともに急速に晴れていった。
霧氷が白く輝くメルヘンの世界から激しい鼓動が聞こえ、白い山へと消えていった。

石北本線 生田原〜常紋 (昭和50年3月23日 1553レ D51444)

















父のニコマートとズームレンズを借り出したこの時は、1枚でも多くの記録を残しておきたかった。
モノクロ10本、カラー5本とフジカシングル8やモノラルのラジカセまで持って、
雪の道内を15日間駆けめぐった。

石北本線 留辺蘂〜金華 (昭和50年3月23日 1592レ D51150)


















今でも記憶の奥底に残り、写真を見ると聞こえてくるジョイントの音。
タンダダダダンタンタタンタタン タン タン タン タン タン タン タン タンタン タン タタン タタン ・・・

石北本線 留辺蘂〜金華 (昭和50年3月23日 1592レ D51150)

















518レで仮眠をとり、丑三つ時の上川で交換の517レに乗り換えて再び仮眠。
北見で蒸機牽引の1527レとなってからは車内録音に窓からの撮影で、駅の到着と
同時にカセットの録音ボタンを停止し、すぐさまホームから飛び降りて発車をねらう。
・・・当時の行程はこんなもん。今では決してできないハードスケジュール。

石北本線 女満別 (昭和50年3月24日 1527レ C58213)


















オホーツクには流氷があるというので行ってみたが、
この時期は帰れなかった小さな氷が波打ち際にひとつふたつあるだけだった。
その氷に乗って遊んでいると、遠くから汽笛が聞こえてきた。

釧網本線 浜小清水〜北浜 (昭和49年3月31日 634レ C58148)


















春休みには決まって春闘をやっており、
煙室扉やテンダーに白文字の「団結」号や「勝利」号がたくさん走っていた。
このカマはきれいだが助士の赤鉢巻きがそれを物語っていた。

室蘭本線 登別〜虎杖浜 (昭和49年3月27日 229レ C57144)


















車窓から馬を見た時、「北海道だなあ〜」と思った。
ポイントを探し、歩いているうちに農耕馬と汽車がやってきた。
なんとか絡めて撮りたくて、50mくらい一緒に後ずさりしながらファインダーを見ていた。

夕張線 追分付近 (昭和50年3月22日)


















去年は黒っぽかった機関区に新しいオレンジ色が増えてきていた。
そんなことは何事でもない日常の朝、彼女たちは楽しそうに通学していった。

室蘭本線 追分機関区 (昭和50年12月)

※ネガの損傷がひどく、画像処理してもこれが精一杯でした。 
彼女たちの笑顔が復活できるネガの補修をやってくれる業者さん、いませんかあ〜?


















ナンバープレートをはがされ、生命を落としたカマには無情に雪が降り積もる。
老兵が屠殺場に連れて行かれる新旧交代の残酷な光景。
鉄の時代の終焉。
石炭の匂いが消えていく。

室蘭本線 追分機関区 (昭和50年12月)







資料館(昭和50年 春)



inserted by FC2 system